2010年5月16日日曜日

本日は、呪符(お札)の話題のスレッドを掲載させて頂きます。
ヒロト(俺)のダチのダチのA君はお札はあまり効果がなく、やはりお札よりも『金環蝕』
(現ザイン)さんの『ニュークリアスコンバージョン核石』の方が良いといっているが、…….。

どこかの大先生によると、人それぞれ相性というものがあり、
より応験あらたかなものとなると、人によって、
呪符(お札)、太古神法(折符)、手印+秘呪、ニュークリアスコンバージョン核石&神名水、等
と違いがあるそうです。
(どれも、しっかり作られたものは神気を出しているそうだが、相性のこと除いても俺も
ニュークリアスコンバージョン核石&神名水が一段優れていると思われるが。)

本日the BBSからの記事で、昔から伝承されてきた、お札に関するスレッドをご紹介させて頂きます。

で、その前にもう一つ気になる記事があったので、それの掲載後、本題を掲載致します。



花杵庵 豐比古さんの『花杵 庵』ブログより

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以前途中まで下書きして放置していたものですが、UPしておきます。


一般には、本田親徳の提唱した鎮魂帰神法として知られていますが、「鎮魂」と「帰神」はそれぞれ独立した行法です。

朝廷祭儀をはじめいろいろな神社で行なわれていたもので、神職が誰かのために神に祈願をして、その人の魂を鎮めるのが鎮魂祭です。
そして「自己鎮魂」では、自分で自分の魂を鎮める事で、この鎮魂法には大きく分けて二種の義があります。
しかし行法となるとそれぞれの流派道統や神伝と称する古神道を行ずる個人的なもの等、公にされていないものもあろうかと思われますのでなかなか把握できませんが、御神魂を招いて自魂を広大ならしめる『おほみたまふり』と己魂の遊離するのを招き返し身体の中府(三つの丹田)に安らかに鎮めムスビ止める『たましずめ』の二義です。

魂振・魂殖(たまふり)は、饒速日尊の十種神宝に由来するもので、いまでもこの系統の行法は物部氏所縁の神社などで行われています。
他にも天鈿女命の流れで古代氏族・猿女君などのタマフリもあり、宮中の鎮魂祭はこの要素で構成されている側面があり、神楽や鎮魂歌などが収録されたCD"日本古代歌謡の世界 "は聴き応えのあるもので、宮中の鎮魂・招魂の儀式である「御神楽儀」で用いられたものが収録されていて、儀式の始めに御神霊をお迎えする「天地開闢、神霊降下」の「阿知女作法」など貴重な歌も収録されています。
宮中の秘楽として、神楽歌の分野は「神聖にして侵すべからず」との意見も多かったようですが・・・

天鈿女命は天岩戸の前で、「ひと ふた みぃ よぉ いつ むゆ なな やぁ ここのぉ たり もも ち よろず」 と謡い、八百万の神々が、「あはれ あなおもしろ あなたぬし あなさやけ おけ」と唱和したと伝えられ、これが神楽歌の始まりと云われています。


鎮魂行法には古来より種々の道統があって、それぞれの唱え詞にもロイがあり、また座り方から手の置き方組み方に至るまでの違いもあります。
ついでに言えば「帰神」とは、神懸りと同義で、前にも岩笛の記事に書きましたが、記紀をはじめ各種例がありますが、最も有名なのは仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰の故事でしょう。
皇后が依代となり、天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者をした例にならって、平田篤胤や親徳は鎮魂や帰神を模索して琴に代えて岩笛を使い鎮魂帰神法として再構築したのでしょう。(琴は六絃の和琴で、のちに神依板や梓弓そして岩笛が使われるようになります)

鎮魂法の中では古伝とされる饒速日尊系統の石上鎮魂法は、両足の裏を合わせて安座し、十種神宝を唱えて印を組み、ひふみ神語を唱えながら身体を動かし、鎮魂状態に入るというもので、古事記など多くの古典にも鎮魂に関する記述もあることから昔は一般にも広まっていたのかもしれません。


今日なお皇室には神宝を振動させる宮中鎮魂の行法があるようですが、これは物部氏が所伝してきた石上神宮の長寿行法と密接な継承性をもっていて、十種神宝と唱言が連動するものになっています。

その宮中鎮魂法も、実は300年ほど断絶があり、徳川後期に復活したという話もあります。
その間は、空海が上奏して認められた内裏の傍らの真言院によって鎮魂行法が肩代わりされていて、行法にもさまざまな断絶や代替や世代交代があったそうです。

また、中世後期以降、吉田神道・度会神道・両部神道・法華神道・垂加神道・伯家神道・橘家神道・復古神道・雲伝神道などが勃興して、多様な鎮魂行法が生み出され行われるようになっていき、神仏分離と廃仏毀釈を経て新たな神社神道の奔流のもとに独得の行法家を出現させることになるのです。


そして本田流鎮魂法ですが、幕末の最後の慶応3年前後に「帰神法」を確立し、明治になって静岡県知事の奈良原繁(薩摩出身)の力添えで静岡県志太郡岡部の神(みわ)神社を最初の拠点にすると、ついで秩父、川越に道場を開きますが、初期には「神懸三六法」というもので、のちに「本田霊学」と呼ばれるようになるのです。


『令義の解に曰く、 鎮は安なり、人の陽気を魂といふ。 魂は運なり。云ふは離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮む。故に鎮魂(おほみたまふり)といふ。。』

此の鎮魂の法は天授の神法にして現世神界の学則なれば、上は天皇の治国平天下の御事よりして、下は人民修身斎家の基本、続いて無形の神界を探知するの基礎なれば、宜敷朝夕之を懐中に秘し、事業に閑暇は謹みて是を省み之を行ひ、霊魂の運動活動を学習すべし。(『本田親徳全集』より)

行法としては、神授の鎮魂石を清水・塩にて清め、天鈿女命の御魂を鎮めて白羽二重に包み、三方(お供えの台)に鎮魂石を安置します。
水垢離や、浄水で心身を清めて正面に正座し、心身の力を抜いて胸前で、鎮魂の印を結ぶ。
鎮魂印は、内縛して両頭指を立て、大指は左で右爪を軽く押さえます。(不動根本印と似た形と言えば分かりやすいかな? 笑)

※ 不動の根本印の解説では、大指の位置の明記がないのがほとんどですけど、水の行なら水を、その他お護摩などなら火を押さえるのがロイであります(敢えてわかりづらい書き方をしましたが、、意外や意外!実はコレを知らない行者も多いのです。。。苦笑)

ここでは、不動印ではなくて鎮魂印ですので、大指の位置に注意しましょう  笑
(この鎮魂の印は、内縛外縛の違いで審神者の印となります)


眼を軽く閉じて、自分の霊魂が鎮魂石に集中するよう凝念します(1回30分程度を日に何度か行っても良い)
これは手軽に出来る簡単な行法を抜粋してますが、いわゆる瞑想や精神統一法と同じで、鎮魂が深まってくると意識が冴え、清澄となり、天地の氣と一体になって、雑念妄想も消えてきます。
眼を閉じていても石が見えたり、人によってはいろいろな感じ方がありますが、もと大本教幹部であり、のちの世界救世教・教祖の岡田茂吉師は、この鎮魂の法により、「地上天国建設の使命を与える」ことを啓示されるとともに、病を癒す力を授けられたそうです。

このように鎮魂法によって癒しの技が使えるようになるという話は多く耳にするところですが、癒しには国津神や、薬師・観音・大日などの各尊を念じて光明真言を使うとより効果的ですね。
この『光明』をいろいろな形でロイ(口伝)にしてる癒し(手翳し)宗教やヒーリング術はいっぱいあります!ってか全部がソレっぽいですね! ←ばらしちゃった 爆


また明治・大正・昭和初期にかけて活躍し、禊の行法を復興確立した川面凡児は、人間は荒魂(肉体)、和魂(意識)、直霊(宇宙の根源意識)から成り立っているとの考えから、段階的に直霊を覚醒させる『鎮魂鳥居の伝』という鎮魂行法を確立し、宮崎のとある八幡神を祀る社家に生まれた宮永雄太郎は、ひふみの数歌をアレンジして『数息鎮魂術』を確立していまして、先に書いた日拝行も合わせ、鎮魂法には多くのモノがあります(合気道などの武術系・鎮魂帰神法などもあります)

そしてヒーリングの中興となる霊術家達も神道霊学を学ぶようになり、鎮魂帰神はもっとも効果的でポピュラーな行法として広まっていました。(ヒーリング界でよく行われる合掌行なども鎮魂法でしょう)
これら霊術家には、桑田欣児、松原皎月や松本道別などがいて、この頃になると神道系・修験系・法華系の各行法が融合されていたりもするようです。

神霊術・まじない・ヒーリングの元祖はやはり因幡の白兎にみられる通り大国主命と少彦名命で、中興の霊術家達の興したほとんどの癒し系宗教は、観音や金神を前面に出し、秘してコッソリ大国主命を陰で祀り、出雲で修行やこまめな参拝をしていたりもします。

手当ての真手は初座、息吹祓いは中の座、手翳しは奥の座とされますが、最近よく見受けられることにレイキなどのアチューンメントを受けてすぐにヒーラーデビューしてしまう方が多いようですが、私メはやはり何事にも修行は必要と考えます。

中には修験系統?を謳って、修行付きなんてのもあるようですが、、青〇実〇など行ヲタクではあるようですが正統派ではありませんですねぇ。。。まぁどうでもいいけど.。o○

そして、本来手翳しヒーリングなどは、高いお金を払って伝授してもらう必要もありませんし、、お役目などと下世話なことも言いません! 笑(誰にでもできることなのです!)

また、一定のリズムで繰り返される音をただ聴くだけの音霊の法も簡単な鎮魂法で、これは本田親徳の門人 佐曾利清が考案した簡易法ですが、時計などの一定のリズムを刻むものや自然界の音を使う方法として伝えられています。(しかしこれにも鎮魂印を額にあてるなどのロイはあるようです 笑)


おまけ

川面凡児 『鎮魂鳥居の伝』 鎮魂深化の様相

【第一の鳥居】 閉じた目の前に鼠色、白色の霧状や様々な光が現れる。
【第二の鳥居】 小豆大の緑色の光玉が現れたり、奇魂としての自分自身の面貌が朦朧と浮かび上がることもある。
【第三の鳥居】 和魂としての自分自身の面貌がハッキリと見え、常時小豆大の濃い緑色の光玉が現れ、意識は現世と幽界の往来が自由にできるようになる。
【第四の鳥居】 和魂が統一され、緑の光玉はしだいに大きく、ホウズキ大・手鞠大となり、玉をスクリーンにして、アーカシックレコードをビジョンとして観ることが出来る。
【第五の鳥居】 この境地に至れば、和魂が鎮定して澄みきり、自在に選択したビジョンが観れるようになる。
【第六の鳥居】 意識は時空を超えて予知や透視が自在にできるようになり、奇魂が光となって発動し、顕界と幽界を自由に出入りできるようになって霊との会話もできるようになる。
【第七の鳥居】 拝神の境地。濃緑光が拡張して融合した真澄鏡の中に神明の御声を聞くか、または御姿を拝することができるようになる。

【本殿】 神の御姿を拝しつつ御声を聞くことが許される。ここに全細胞の直霊が覚醒し、宇宙の根本に合一する。


おまけ2

どこかのサイトで以前面白い記事を読んで記憶していたもの

ヘブライ語で「一から十までの数」の発音を少し修正すると、「ひぁ・ふぁ・み・よっ・つぃぁ・ま・なーね・やぁ・かへな・たうぉ」となるそうです。
また、これを意訳すると、「誰がその美しいかた(女神)を連れ出すのでしょう。彼女が出てくるために、誘いにいかなう言葉をかけるのでしょう。」となり、
さらにこれを大和言葉であらわすと、「たが、そのうるわしめを出すのやら。いざないに、いかなる言葉をかけるやら。」となるそうです。。

そのまんま天之岩戸のお話じゃんねぇ~ 笑
や~っぱ日ユ同祖ってことになるのでしょうかねぇ。。。


おまけ3

延喜式四時祭式に記載されている鎮魂祭の八座の神名は、神魂・高御魂・生魂・足魂・魂留魂・大宮女・御食魂・辞代主です。
しかし、ときに、高皇産霊・神皇産霊・魂留霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神 に変わり、更にはこれらの神様と合わせ大直神を加えて九柱の神を鎮魂の神としますが、この大直神は よく祝詞にも出てくるように、大直日神と神直日神の二柱の神を合わせて一座(大直神)としているので、十柱の神が十種神宝であるとする説もあるようです。


*このブログに関するコメント*

KWさんこんにちは

そうですねぇ、、行を学ぶには師匠は必要です。
が、しかし、、、それは真の教えが前提です!

真の教えのできる人間・・・いるのでしょうか???
修験・古神道・・・・・どちらも怪しい輩が多いです!

ひと昔前は師が弟子を選ぶなんてことも言われていましたが、
多くの弟子を持つ師だからこそ、その中から継承者を選べるんですね。
ひとを見る眼があればこそできるわざなのです。

いまは、師となるものを探すのは至難の業です。
既成仏教(神道も)が一般に対してもっと門を開いていたらこれほど怪しい新宗教がはびこることもないでしょう。
それだけ多くのものが真理を求めているんですよね。
(ご利益信仰や、怪しい超能力を求めるのはそれなりですがね 笑)

オウムの若者云々を語るなら宗教者がもっとしっかりしなければいけません。
自庭をきれいにしようと掃いて排他結果であるとも思えます。
私メもどれほど教えを求めて門を叩いたか・・・  ハナシは一応聞いてくれたとしても、本山にあたってくれ、在家では云々・・・・ ほぼ門前払いですよ。

真理を求めるものに対して宗教に縁のない一般の方が、何でそんなこと?ちょっとおかしいんじゃない?みたいな思いを宗教者が持っているんです!
世襲制で、皆家を守ることに頭がいっちゃっているんでしょうかね 苦笑

行者は行者ですぐ金儲けに走り亡者となる。。 末路が苦しくなるなんて信じていません。
ってことは教えも信じていない?と言われても仕方ないですよね。
慢心です!
自分がやってやってるんだ! オレが救ってやってるんだ!
こんなバカに教えを請うたらバカが移ります 爆

どこで妥協するかが師選びの問題であるとも言えますね。
コレに関しては信頼できるからこの人、コッチは別の人、もしょうがない選択かもしれませんね。
一生付いていきたいと思える師と出会うことは至難の業ですから。。。

まぁ、、何を言っても『縁』のひとことでしょう。
そして、己の目指すところが神の意に沿うのか? が問われますよね。

ツラツラとかなりやばいこと書いてますが宗教の世界はドロドロと危ない(怪しい)輩も多いってことで 笑

この先はナイショのお話になりますので、後日あらためて  笑
• 2006-05-02
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• 2006-05-02

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師と仰げる方との出会いはそれこそ宝くじに当たるようなものかもしれません 笑

そして、真の教え。。。
ここが問題で、いわゆるチャネリングの問題点とも重なりますね。
神示が本当の神示であるのか? それを誰がどう検証し得るのか?

単純明快に言えば、例えば心の声と申しましょうか「こんなことしちゃいけないんだ」と囁くもうひとりの自分。
その存在自体が神の声でしょう。
神と己は繋がっています。それがかむながらに昇華するのです。

神と繋がっていた先人が教えを説いたものが経典であり聖書なのでしょう。けれど長い年を経て、間に何人もの人が介入すれば教えは変わってしまうものです。
また、当初の教えでは満足しない頭脳に進化したりもして元の教えをエッセンスとした似て非なる似非(エセ)宗教も興るようになります。

どんな教えでも本来の奥義奥伝は初伝に帰る事です。
基本がしっかりと出来ているのが真なのですね。

真の己との繋がりがもてれば宗教はなくなります。(いらなくなります)
私メ的には、いま騒がれるアセンションなどと言う物も宇宙存在と繋がることではなく、自我(真我)とのつながりであると思っています。

また、学びとは本来皆に潜在的に備わっていることの確認ではないのかと・・・
そして、あるとき私メは、教えよりも神事・仏事などの所作や行法が知りたかった自分に気付いたのです。

しかし、それは神伝の法と言っても先人の智慧でしょう。
ある種の能力が発動されると教えも行法も真のものとは変わってしまうことも多いですから、師を選ぶときは、そんな能力があったとしても黙っている人を選ぶと間違いはないでしょうね 笑

うむむむ  なにを言ってるんだか・・・  難しく考えるとどんどん難しくなるものです 笑
• 2006-05-03
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• 2006-05-03

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訂正と言うかなんと言うか・・・

>多くの弟子を持つ師だからこそ、その中から継承者を選べるんですね。ひとを見る眼があればこそできるわざなのです。

これも言えることなのですが、そうとばかりも言えず・・ 弟子をとらない人の中にも本当に師と仰ぐに相応しい方もいます。
弟子をとる意味、育てる意味を間違えてる場合も多いからです。
どんな人でも教師資格を得れば正式に弟子をとることはできます。そして資格も金で買える時代ですから 苦笑

私メのもと兄弟子には護摩も焚けずに経もまともに読めないのに祈祷師や托鉢の資格を持っている者もいます。
おそらく次は僧階を上げるはずです! 
師匠(認めないので師僧とは呼びません)がバカなら弟子もバカって見本ですね!!
この人たちは、いったい何がしたいのか? なにを求めているのか、、、私メにはサッパリわかりません。

おっと、、私メはこのバカ師匠には数年前にキッパリ見切りをつけましたのでご安心を♪
しかし、バカのやることと言ったら周りに破門状など送り付けやがりました。
自分のバカを棚に上げて恥ずかしすぎます。
(でもなぜか本山には僧籍が残っているんですよ 笑)

また、形ばかりの修行をして偉くなった気になってるおバカさんも大勢います。
験者や天狗が時代劇などで悪者扱いされるのも無理はありません 苦笑。

そして、教授やら博士号やらの各種資格を買いあさり、各国の有名人と写真を撮ってハッタリをかます宗教指導者もいます。
教えには何の意味も持たないのにね! なんだかなぁ・・・

しかも新宗教にはオカルト的な霊能や予言の数々が付き物(憑き物)といっても過言ではないでしょう。
宗教という言葉でヒトククリにすること自体にも問題はあるのですが、本当の神伝で教えを説くのはアリとしても、終末予言や霊能を母体としたモノは宗教ではありません。
もちろん話題の占いおばぁなどは逆に地獄に落ちる筆頭でしょう 爆

そんな詐欺師のような者達を認めるように、法人格を与えてしまった行政にも責任がありますが、中には既成仏教のある宗派に寄生仏教してる集団もいます。
それらの看板を利用して、営業を行うために、裏では莫大なお金も動いています。
見た目や金で買ったでっち上げの経歴に騙されて食い物にされる事例も後を絶ちません。
信者と書いて儲けと読むなんて皮肉を言われるのも一理アリってことですね 爆

悲しいかな葉っぱどころか一番腐ってはならない根が腐っているのかもしれません。

私メが言うのもナンですが、人として恥ずかしくない生き方をしていれば形としての宗教など必要ないですね。
信仰と宗教は別物ですから。。。

これってやっぱ問題発言でしょうかね? 爆
てか人の悪口はいけませんねm(__)m


私メの知りえたことで必要なものがあればどうぞお持ち帰り下さい 笑
• 2006-05-04
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